2026年5月16日

福島県立白河高校首都圏同窓会

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特 別 寄 稿

大正から昭和:白河の全国知名度向上に貢献した人たち
渋沢栄一の周囲人脈から見える足跡
白河の恩人:東京帝大教授・三上参次と東京養育院幹事・田中太郎

高17回 昭和40年卒 庄田育夫

白河の全国知名度向上の恩人

渋沢栄一と共に白河を全国区にした東京帝大教授・三上参次と東京養育院幹事・田中太郎

 福島県白河市。江戸時代の白河藩である。初代藩主は丹羽長重。柴田勝家などと並び織田四天王の一人といわれた武将・丹羽長秀(豊臣政権当時の加賀藩主)の嫡男である。
みちのくの玄関口として古くは京の都から訪れる歌人などにも羨望の地であった奥州・白河。江戸時代後期には老中首座・松平越中守定信(白河楽翁公)が第12代藩主となる。
初対面の人から、ご出身は?と聞かれて、福島県です、と答えるよりも「白河です」と返すと、ほゞどなたからも「ああ、松平定信の白河ですか。良いところですね」と返ってくる。戦後生まれの筆者は白河生まれの白河育ち。幼少の頃から、おらが殿様は寛政の改革と南湖公園で有名な老中・松平定信という認識である。多くの全国の人達もそのように認識しておられるのだろう、と勝手ではあるが解釈している。
しかし、これはそう古くからの話ではない。何故なら、明治政府は江戸・徳川時代を否定した。つまり歴史は世界的に、或いはそれぞれの地域的にみても勝者の歴史が語り伝えられるのである。織田信長であり豊臣秀吉であり徳川家康であり明治政府なのである。
薩長中心の明治政府からみれば、江戸時代とは、鎖国で閉じこもり西洋の進んだ文化を取り入れようとしなかった古い体質の江戸・徳川幕府である。それを開放して近代化を進めたのが薩長中心の明治政府である、と自画自賛した。
しかし、歴史を正確にたどれば、明治維新とは薩長下級武士のクーデターそのものである。その薩長は会津藩に反朝廷の濡れ衣を着せて、戊辰の役のあとに何をしたのか。白河地方の南方に広がる那須野ヶ原は薩摩と長州のぶんどり合戦の舞台となった。例えば、現在の那須拓陽高校は薩摩の大山巌の別荘跡地である。同じ薩摩の松方正義の千本木農場などもある。長州藩に目を向ければ、広大な青木周蔵別邸や山県有朋別邸などもある。果ては西郷隆盛の弟である従道(大山巌とは従兄弟)を祀る西郷(さいごう)神社まで造った。その他多くの広大な土地が表向きは農場経営と称して実質的に支配されたのである。
まさに「勝てば官軍」である。
那須野ヶ原の東隣の太田原藩領と北側に位置する白河藩領については、さすがに薩長もミエミエで手を出しずらかったとみえる。よって、かろうじて那須温泉は略奪を免れた。那須温泉・湯本界隈は定信当時には白河藩の影響下に在り、現在でも那須・湯本の温泉源権利は白河の老舗が握っている。
上記で明治維新は薩長下級武士のクーデターと書いたが、翻って渋沢栄一は埼玉県深谷市血洗島の豪農の長男で、武力で高崎城を乗っ取り、横浜に乗り込んで外国人を切り捨てると企てた尊皇攘夷の過激派でもある。武器まで調達したが岡部藩に情報が漏れて未遂に終わり京都に逃れて一橋家に仕官するのである。その後にフランス・パリ万博に出張して産業革命を目の当たりにして帰国する。その後の合本主義に基づく活躍はご承知の通りである。
話を戻し、明治政府の西洋崇拝の具体的な事例を挙げてみよう。まずは子供達への思想教育の一環として、偉人伝などではナポレオンやリンカーンなど欧米ものを積極的に取り入れた。つまり、江戸時代の日本は閉鎖的で劣っており、欧米文化は優れている。それを取り入れる明治政府は素晴らしい、という思想を子供のうちから国民に植え付けようとしたのである。
しかし、このような薩長中心の明治政府の動きに「日本にだって立派な人物が居る」と論陣を張ったのが東京帝国大学教授の三上参次博士である。「白河楽翁公と徳川時代」を著して論陣を張る。白河にとっての三上博士の存在は極めて大きい。大実業家・渋沢栄一には微に入り細に入り松平定信を植え付けたといっても過言ではない。この渋沢と三上が組んだタッグの影響は薩長中心の政府を動かした。明治41年には定信が正三位に叙せられ復権したのである。その後、歴史教科書にも定信の寛政の改革を始めとして名君であることが、教育行政により全国的に認知されることになる。
三上博士は白河の住民たちからも絶大な信頼を得た。今も南湖神社境内に残る「渋沢栄一顕彰碑」の顕彰文は、白河住民から「おらが殿様のことも、渋沢さんのことも、両方を一番知っているのは三上先生です。ですから、この顕彰碑文を書けるのは三上先生しかいません。どうかお願いします」と口説き落とされて作成したものである。博士作製の碑文には楽翁公の功績を詳しく述べた上で、次のように記されている(要約)。
「渋沢栄一翁は白河楽翁公を敬愛して、この南湖神社創建に多大な尽力をした。今度は白河町民が渋沢栄一を敬愛する番である」。
 三上博士は旧船津村、現在の兵庫県姫路市船津町の出身。姫路城を国宝に指定した立役者でもある。昭和天皇が皇太子当時のご進講役を勤めるなど、郷土の偉人として称えられている。しかし、今に残る地元の記録などをかいまみても、実に謙虚なお人柄と言うべき人物である。文学博士として、また歴史学の先駆者としても知られているのだが、筆者の知る限りでは地元・姫路の各種資料をひもといても、およそ奥州・白河での活躍、貢献などの事実関係は記録に出てこない。広田弘毅内閣では文部大臣に指名され、新聞記事にも掲載されたのだが「学業研究を優先したい」と固辞した。いかにも三上博士らしいエピソードである。
三上博士は定信と渋沢を敬愛し、白河にも足を運び渋沢の顕彰碑文を寄進した。
また、大正14年5月には旧制白河中学(現福島県立白河高校)で講義を行い、登龍健児を鼓舞した記録が残る。
更に記しておきたいのは、渋沢が楽翁公没後100年祭を東京丸の内で大々的に催した会場では、三上博士が来場した多くの東京府民をはじめ報道各社に対して定信・白河を大々的にPRした。このニュースは新聞、ラジオを通じて全国に配信されることになる。この効果は当時の国民大衆に絶大な効果をもたらし、奥州・白河の名を全国に知らしめた。この全国報道による影響力は絶大で、東京府は白河藩にちなみ「白河町」(現在の東京都江東区白河1丁目~四丁目・1万数千人が居住)を制定する。また、昭和の始めから18年までの毎年6月には東京全域の町会長2,500人をはじめ4,300人規模が日比谷公園に集い、寛政の改革で残してくれた七分積立金のお陰で東京の整備が出来たことへの感謝を込めて、講演会や映画会などで楽しんだという記録が残る。日比谷通りを挟んだ向かい側には白河藩の上屋敷が在った。現在の帝国ホテルである。更に文部省は教科書に寛政の改革を掲載して子供達に定信・白河の知識が広がる。現在でも全国の中学校歴史科目の試験問題には「寛政の改革」が必ずといっていいほど出題されている。その子供達が大人になり成長して白河という地名は全国的に語られるようになっている。このような史実をひもといてみると、明治・大正以降の白河が全国に知れ渡った立役者の一人が三上参次博士なのである。
一方、忘れてはならないもう一人の白河の恩人が居る。田中太郎・東京日本橋生まれの社会事業家である。定信が老中に就任する際に、自分の命はおろか妻子の命に替えても善政を行う、という神への約束を記した「心願書」を本所・吉祥院で発掘して渋澤に進言したのが東京養育院幹事(実質的に養育院を取り仕切った人物)であった田中太郎である。この心願書を読んだ渋沢は「定信公というお方は只者ではない人物」と心酔することになる。
これ以降、渋沢は定信を「自分の人生に大きく影響を与えた人物の一人」と評して敬愛することになる。つまり、田中太郎が定信の心願書を渋沢栄一に提示したことにより渋沢は熱烈な定信ファンとなり、それがひいては大渋沢の白河詣でにつながるのである。
ちなみに、渋沢が敬愛するもう一人の人物は、15代将軍・徳川慶喜公である。
当時の渋沢は、国際連盟協会の会長や日米海軍軍縮交渉の団長をはじめノーベル平和賞候補になるなど、内外からの訪問要請が引きも切らずに超多忙な立場であった。そこで、養育院幹事の田中太郎が大正9年6月6日、渋沢の代理として南湖神社の地鎮祭に出席している。更には大正14年1月には、横山大観と並び称される日本画の巨匠・下村観山画伯の「楓」と橋本永邦画伯の「桜」を神社本殿正面に設置すること、など細やかな渋沢の指示を受けて忠実に実行している。横幅六尺にも及ぶこのふたつの秀作は、その芸術的価値を考慮し、現在は南湖神社宝物館に保管されている(見学は予約制)。ちなみに、観山が渋沢の要請により、秋の南湖の紅葉を描いたこの作品「楓」は2026.3.17~4.12・東京国立近代美術館で全国公開され、多くの日本画ファンに絶賛された。
この田中太郎は、渋沢が生涯に亘って心血を注いだ東京市養育院(現東京都健康長寿医療センター・ベット数600床。定信の祖父である8代将軍・吉宗が立ち上げた小石川養生所が源流といわれる)の2代目院長となる。まさに渋沢が立ち上げた楽翁公遺徳顕彰会の2代目会長を引き継ぐことになる三上参次博士と双璧で、この二人は渋沢が生涯にわたり注力した遺訓を引き継ぐことになるのである。このように三上参次と田中太郎は渋沢の意を汲んで生涯に亘り奔走することになる。三上が準備するデータを基に渋沢が政財界やマスコミなどに広く発信する。それを田中太郎は忠実に懸命に支える。この三者によるタッグは、白河を全国区にする絶大な効果を発揮した。言い換えれば、二人は白河名誉市民に値する貢献をした人物、という事が出来る。
ところで、大正の初めから渋沢が白河・南湖神社創建に向けて頻繁に白河を訪問する様をみて、全国各地から「なぜ白河を訪問するのですか」と質問された。これに答えて渋沢は傍らの秘書に「これから言う事を記録しておくように」と念押しして次のように述べている。
「なぜ白河・南湖神社創建を支援する為に訪れるかといえば、紅葉など物見遊山の為などではない。神社が完成すれば、将来にわたりこの神社を各地から多くの人々が訪れることにより、楽翁公の善政が全国津々浦々に知れ渡るからである」。
 旧制白河中学(現白河高校)創立と南湖神社の創建はほぼ同時期にあたる。質実剛健・文武両道を掲げる白河中学は創立時から終戦に至るまで、南湖神社を祭神として毎年5月2日と11月3日の年2回、生徒全員と校長、教職員が揃って参拝したといわれる。
エピソードをひとつ述べる。2代目・工藤正勝校長当時、現在のグランド部分は田んぼであった。これの買収交渉が農家との間で難航した際、工藤校長は「困ったときの神頼みで、毎日のように南湖神社に参拝に行った」と述べている。
このような歴史環境下で、地元・白河近郊には大正時代から「定信研究者」が多数輩出される。特に戦後には顕著であり子供から大人まで白河近郊住民の楽翁人気は絶大であった。
しかし、時代の流れと共に研究者の自然減少の影響もあり、現在では往時ほどの(研究)盛り上がりには欠けると言わざるを得ない。ましてや、本稿記載の三上参次や田中太郎という人物が、いかに白河の全国的認知向上に貢献したのか、という歴史を知る市民はほとんど居ないのが現状である。このような時勢に鑑み、松平定信と渋沢栄一と白河に関する人物相関として、些かでも後世の歴史認識の糧になることを祈念して本稿を記したものである。
 

最後に、上記の人達やその関係者と、日々協議・交渉などを重ねた白河関係者は次の通りである。郷土の諸先輩に深く敬意を表して筆を置く。
(順不同・敬称略)
・安田平助・川崎大四郎・石岡忠藏・大木久兵衛・須釜九八郎・山本長三郎
・斉藤彦治・十文字久吉・益田儀一・渡部泰次郎・荒井治右衛門・藤田新次郎
・佐久間平三郎・小島勇次郎・広橋嘉七郎・中目瑞男・久保木利助・阿倍浄
・鈴木長吉・中村金之助・堀川久助・中村新太郎・鈴木吉五郎・大河内武
・高野政次郎・丸野実行・東郷酉七・大木真一郎・小川新助・大谷鶴吉
・渡部泰次郎・金子鉄太郎・吉田豊吉・後藤多佐・小針善兵衛・佐藤菊之助
・工藤正勝・服部宗二郎・川瀬作兵衛。ほか。

参考文献:デジタル版渋沢栄一伝記資料
東京都慰霊協会・松平楽翁公墓前祭講演記録集
文責:高17回・昭和40年卒 庄田育夫